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UTSの海外研修留学について―教育者の立場から

UTSの海外留学事業の軌跡を、明確に提示された池野社長の一文に呼応して、私は大学教員の立場から、UTSの留学制度は、教育的にどのように評価されるだろうかということについて述べてみたいと思います。

 

教育の定義

そもそも教育という言葉は、洋の東西を問わず、その語に「育てる」という意味がこめられています。欧米語に広く共通して使われている“educate”の語源はラテン語で“breed / bring up”(育てる/育成する)の意なのです。更にもとを探ると“duco”(=draw/引き出す)という意になります。ラテン語では、漢字の「教育」よりも、「養う」の意が強く“educator”はもとは「養育者/育てる人」から“foster father”(養父)の意で、それから今日の“tutor”(個人指導者/家庭教師)とか“educator”(教師/教育者)の意が加わったものなのです。これをふまえて、現代の日本語の「教育」と英語の“education”の定義を比較してみると、面白い対照が見出せます。
「教育」三省堂国語辞典→教えておぼえさせる/しつけること
「教育」新明解国語辞典→一般的な(その面の)知識や技能の習得、社会人としての人間形成を目的として行われる訓練
“Educate”Webster’s New Collegiate Dictionary→develop and cultivate mentally and morally / fit for a calling by systematic instructions / teach / train / discipline

“Educate”Oxford Dictionary→train the mind and abilities of / provide education for

更に“education”を調べると→systematic training and instruction designed to impart knowledge and develop skillsとあります。

日本語のほうで目立つのは、しつけと、おぼえさせるという言葉で、教育を代表し、欧米でもしつけ(train)訓練(discipline)知識の伝達(impart knowledge)の含意があるとはいうものの、“mind”(心/精神/理性/知性)を対照に“abilities”(技量/才能)を引き出す意の強いことに気付きます。英国の伝統では、教育とは「真実と誤謬」及び「善と悪」を正しく判断する「能力」を、「教えと実践」によって高めるものである、と述べた16世紀の学者Richard Hooker (1554? – 1600)の至言を、18世紀の英語辞典編纂者であると同時に、文壇の大御所といわれたSamuel Johnson博士(1709-84)はその辞典の「教育」という項に引用しています。このような歴史的事実を通しても、一世代に引き継がせようとする重大な価値の問題を教育の根本として、真剣に取り組んでいたことが想像されます。

教育を受けることの意義は、人間が成長する過程において、身をもって体験することにあり、異なる教育環境に身を置いて、多角的に体験するのが望ましいといえます。一つの国の中にいて、公立、市立、各種専門学校、塾など、異なる教育の場で異なる訓練を受けることは出来るでしょう。しかし、日本の場合、教育が俗に「金太郎飴」製造過程のようだと批判されるように、どこを切っても同じ、即ち、画一的傾向が強いようです。勿論その良い点は、一般教育の並及と向上、秩序の維持、均斉のとれた統一の確保などがありますが、人間の個性の尊重、能力の個人差、異質なものへの寛大な認知は、充分になされているでしょうか。集団訓練を必要とする、団体スポーツ、集団行事、一斉テスト、共同研究などには、秀れた効果があることは認められても、独創的な言葉の使用、個を中心とした対話や討論、特にそれを基礎としている外国語の習得、創造的な個人研究などの推進に、日本の教育が充分に取り組んでいるかに不安が残ります。その上、日本の学則は機動性に乏しく、転校や中途停(退)学はなんらかの負い目を意味し、学校や学年によっては一切移動を認めない風すらあります。この画一性と硬直性の殻を破って多種性を体験するには、なんといっても海外留学ということになるのです。
 
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